お釈迦さま物語(釈迦如来の教えと阿弥陀如来の救い)《仏教・浄土真宗》





『お釈迦さまと阿弥陀さま

純心寺住職 曽我弘章



【はじめに】
 この「お釈迦さま物語」は、最初から順番に ( 【一】、【二】、【三】・・・・・と ) 読んでいただいても、見出しを見て関心のある項目から ( 【十】、【十二】、【五】、【七】・・・・・と ) 自由に読み進めていただいても、どちらでも結構です。

 

目次
               

 【一】「お釈迦さまと阿弥陀さまはどのような関係ですか」という問い
 【二】お釈迦さま(釈迦如来)の誕生
 【三】お釈迦さまのさとり
 【四】苦しみの原因
 【五】仏教とは
 【六】仏願の生起本末、法蔵菩薩の願い(本願)
 【七】南無阿弥陀仏とは
 【八】阿弥陀さま(阿弥陀如来)とは
 【九】真実に触れる
 【十】人生という旅
 【十一】人生を振り返って後悔することはありませんか
 【十二】お釈迦さまの最期、入涅槃
 【十三】お釈迦さまの思い
 【十四】「歎異抄」第一条、第三条、第九条、「御文章」聖人一流章

 【十五】《 心の言葉 》 



【一】「お釈迦さまと阿弥陀さまはどのような関係ですか」という問い


 「お釈迦さまと阿弥陀さまはどのような関係ですか」、「お釈迦さまの教えと阿弥陀さまの救いは同じですか」、「南無阿弥陀仏とは・・・・・」という問いを受けましたので、できるだけわかりやすくお話してみます。

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【二】お釈迦さま(釈迦如来)の誕生

 お釈迦さま
(釈尊、釈迦如来、釈迦牟尼仏)も、最初は老いて病んで死んでいく人生に苦悩を抱く一人の人間でした。

 お釈迦さまは紀元前463年頃、現ネパール南部のタライ平原にあるルンビニーという小さな村で、カピラヴァストゥ
(カピラ城)に都を置く釈迦族の王子として誕生され、ゴータマ・シッダールタ瞿曇悉達多と名づけられました。父親の名はシュドーダナ浄飯王で母親はマーヤ摩耶夫人と申します。
 母親とは生後7日にして死別します。16才の頃にヤショーダラ(耶輸陀羅)と結婚して、ラーフラ(羅睺羅)という男の子が生まれます。
 29才のとき、人生の根源的な苦しみを解決するために出家を決意します。
私は、なぜこの世に生まれたのだろう」、「どうして苦悩するのか」、「いったいどこに向かって生きているのだろう・・・・・」
 王子の身分を捨て、妻と子を城に残して修行の道に入ります。それから6年の間、壮絶な苦行をされます。
 しかし、この心身を極度に消耗するのみの激しい苦行は、苦悩の根本的な解決とはならないことに気がつかれます。

 35才になられたお釈迦さまは、苦行で痩せ細った身体と心の渇きをネーランジャー川
尼連禅河でゆっくりと洗われます。川からあがると、村の娘スジャータの捧げた乳がゆを心静かにいただかれます。いくらか体力を回復されると、後にブッダガヤ(仏陀伽邪)と呼ばれる森閑とした地の大きな菩提樹の根元に静かに座られます。すべてのいのちが苦しみから解き放たれることを願い、不退転の覚悟で瞑想に入られます。

 そして、ついにさとりり、悟り)を開き、仏さま仏陀、真実に目覚めた人、真理を悟った人)となられました成道

            
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【三】お釈迦さまのさとり

 お釈迦さまは、「私たちは、なぜ苦しむのだろう」、「苦しみは、どうすればなくすことができるのだろう」と、「苦」の正体を見つめられたのです。そして、ついに重要な真の事実を見つけられました。

 お釈迦さまが気づかれたのは、この宇宙のすべてが、あらゆる物事の一つひとつが無数の条件が加わることにより形となって現れ、すべてが原因と縁
因縁によって成り立っている、存在しているという因果の道理でした。

 あらゆるものは刻々と織りなしていく縁によって常にとどまることなく移り変わり
(無常)、固定的な永遠不滅の実体などというものは何一つない(無我)のです。冷たく聞こえるかもしれませんが、私たちはもちろんのこと、この世のすべての物事が縁によって今存在しているだけです。
 めぐり合わせによるその存在は、自然にそのときそうなっているだけの姿形・事象で、一切の執着を離れた世界
です。

 お釈迦さまは、「これがあるから、それがあるのです。これがなければ、それはないのです。要するに、これが生じるから、それも生じるのです。これがなくなれば、当然それもなくなるのです」
と、物事は縁によりすべてがかかわりあっていて、一つとして単独で存在するものはない縁起こともさとられました。
 あらゆるものが、縁によって生まれ、縁によって移り変わり、縁によって滅するのです。そして、また縁によって生まれ、移り変わり・・・・・。一切の自然の営みそのものが、すべて因
(直接原因)と縁(間接原因)によって存在しているのです因縁生起

 ところが私たちは、知らず知らずのうちに「わたし(自我)」にとらわれます。
 あらゆるものが変わりゆくものと頭ではわかっていても、無意識に「わたし」は常住の存在で、自己の内部に永遠に変わらない「わたし」という特別な実体があると思っていますから、因縁によってあらわれ起こる「あるがまま、ありのままの真実
(自然=じねん)」が、因縁のままに生かされている「いのちの真実」がわからないのです。
 例えば、私の生も死もどちらも自然なことなのに、生は受け入れられるが死は受け入れることができないという「わたし」が「苦」を生み続けるのです。

            
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【四】苦しみの原因

 私たちを苦しめるのは、心身を惑わし悩ます「わたし」の心の動き
煩悩です。三毒貪欲瞋恚愚痴などです。
 貪欲とはむさぼり求める欲の心、瞋恚とは怒り腹立ちの心、愚痴とは道理をわきまえないで迷う愚かな心のことです。

 この煩悩が私たちの身には十分にそなわっていますから、縁に触れれば自分の意思を超えて欲が、怒りが、嫉妬が・・・・・燃え盛ってきます。その上、慢心するかと思えば、不安に押し潰されそうになったり・・・・・。
 限られた人生という時の中で、どれだけ人の心を傷つけたり、傷つけられたり・・・・・。一つの言葉、一つの物事に一喜一憂する私たちです。

 お釈迦さまは苦しみや悩みを克服するために、「迷いの人生は苦しみで、苦しみの原因は自分に対する執着
我執で、その執着の原因である煩悩を断ち切れば苦しみはなくなるから、そのために正しい道を歩みなさい。その道とは物事の見方、思い、言葉、行い、生活、努力、気づかい、精神統一の八つを正しく行うことです」と、四つの道理と八つの実践方法四諦八正道を教えられました。

            
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【五】仏教とは

 仏教は、真実に気づき、真実に救われて生きる教えです。

 この教えは、仏さまの教えであるとともに、正しい道理を知らないで迷いの中にいるもの
衆生が真実に目覚めて仏になる教えですから、「私もさとりの世界を知りたい。貪欲、瞋恚、愚痴などの煩悩をなくして、仏さまのような広い大きな心で生きたい菩提心」という願いをもって求めなければ理解が難しい教えです。

 そして、私たち一人ひとりが仏さまのお心に触れて、様々に異なった境遇のいのちが一緒に生きていくという自覚と思いやりをもって、自分の行為を通して他が喜び、他の喜びを自分の喜びにできるように、私のいのちも他のいのちもともに生かしながら
自利利他、この世がお浄土のように安らかで浄らかな世界になるように努める教え菩薩道です。
 すべての生きとし生けるものが仏としての本性を有しているのですから
(一切衆生悉有仏性)、私たちは恵まれたいのちの尊さに気づき、輝きを得て、仏さまに救われた日々を過ごさなければなりません。

 しかし、物事を正しく見よう、考えよう、語ろう、行おうとしても、思わなくてもよいことを思い、言わなくてもよいことを言い、やらなくてもよいことを繰り返している私たちです。欲しいものは限りがないし、不都合なことがあれば腹が立つし・・・・・、とても仏さまにはなれそうもありません。
 次から次に沸き起こる自己中心の煩悩に振り回されて、正しい道を歩めない私たち
凡夫は一体どのようにしたらよいのでしょうか。

 
そこでお釈迦さまは、それはそれはしみに満ちたあたたかなお心で、煩悩をかかえもって生きる私たちを仏の世界へ導くための手だてを示されました。
 いよいよ、お釈迦さまがこの世に誕生され、さとりを開かれた真の目的
(仏教の真実)を私たちに語られるときがきたのです。

            
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【六】仏願の生起本末、法蔵菩薩の願い(本願)

 それは、お釈迦さまがラージャグリハ
王舎城霊鷲山に住まわれていたときのことでした。

 そのときお釈迦さまは、「私がこの世に生まれてきた目的は、すべてのいのちを仏にしたいという願いを起こし、その願いを成就された仏さまの存在を伝えるためです。その仏さまが法蔵という名の菩薩であられたとき・・・・・」と、私たちを助けるための手だてを語られはじめました

 その内容は、お釈迦さまがさとられた真実を、私たち衆生にも理解できるように、姿形をもって、言葉をもって象徴表現された法蔵菩薩
(阿弥陀如来)のお話です。

 法蔵菩薩は、どうしても助けずにはいられないいのちを見つめられました。そして、苦悩する衆生を救い取って仏にする願い
(本願)を起こされました。どうすれば力のないものを救い幸せにできるだろうか、どうすれば仏にすることができるだろうかと考え続けられました(五劫思惟の願)
 そして、私たちのすべてを知り尽くされたうえで、「今の、そのままのあなたをどうしても助けたい」と一切の条件をつけないで救い取ることを誓われ
誓願、言葉では言い表せない、それはそれはたいへんなご苦労を重ねられました(兆載永劫のご苦労)
 その結果、法蔵菩薩は衆生救済の願いを成就されて阿弥陀如来
(阿弥陀さま)となられ、安らかで浄らかなお浄土(極楽浄土)を設けるにいたられました。

 仏さまとなられた阿弥陀さまは、「私の声が聞こえますか。私はあなたを救い取って、生死を超えたいのちの仏にします」と約束してくださいました。大きな言葉です。
 そして、衆生を救う自分の存在を知らせるために、阿弥陀さまは自らの名
(名号)をもって呼びかけられました。「南無阿弥陀仏」と。
 ついに、法蔵菩薩の大いなる願いであった衆生救済活動が始まったのです。

            
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【七】南無阿弥陀仏とは

 
 私たちには、現在においてこそ救いが必要なのです。

 縁によって生まれ、縁によって生き、そして縁によって生涯を終えるのが自然な人生です。しかしながら、「あるがまま、ありのまま」に自分の生死を受け入れられないで、現在の生に苦しむ衆生がいます。
 現在の生をなおざりにして、この世に生まれた本当の幸せというものに遇えなくて、どこに救いの価値がありましょう。救いを求めるままで終わる人生は悲しいです。

 私たちは、生死のことで、また自分の身体、言葉、心
(身口意)による行為(業)などで苦悩をかかえています。
 そこでお釈迦さまは、
衆生の苦悩の原因を明らかにされました。そして、色々な事象で精神的、肉体的に苦しむ私たちを抱きあたためて、必ず幸せにするという大慈悲があることを教えてくださいました。私たちが、すでに、あたたかく広々としたいのち(無量寿)の中に生かされていることを教えてくださったのです。
 また、日ごろ
感謝することさえ忘れている多くの恵み、やさしさや思いやり、うれしいことや楽しいことに気づいて、かけがえのない一日一日を大事に生きてほしいと願ってくださいました。
 
その上でお釈迦さまは、「あなたのいのちが大切です。どのようなあなたであっても、私が必ず助けて幸せにします。必ず仏(真実に目覚めたもの)にします」と誓われて、阿弥陀如来(無量寿如来)となられた法蔵菩薩のお心(本願)を知らされたのです(仏説無量寿経)

 そのときから、「無常の中、自らの行為によって深く重い罪を背負い、多くの煩悩をかかえて生きているあなたを、必ず救い取って絶対に見捨てはしません(摂取不捨)」と仰せられる阿弥陀さま(阿弥陀如来)と、自分の力で苦悩を断ち切ろうとしてみても、結局迷いから離れることができない私が、「私のいのちに帰しなさい」というお呼び声によって固い絆で結ばれたのです(帰命無量寿如来)
 「あなたをどうしても救わなければならないのです
(慈悲)」、「あなたを必ず助けます(智慧)」と、衆生救済のために名告り出られた「南無阿弥陀仏」の名号は、阿弥陀さまのお呼び声であり、お働きです。何が幸せなのかということもはっきりわからないままに苦悩する私たちを見つめられ、自らのいのちをかけて呼びかけずにはいられない阿弥陀さまの声、お心そのものなのです


 「南無阿弥陀仏」は真実です「真実」と簡単に申しましても、真実そのものには具体的な色も形もありませんから、理解するのはたいへん難しいことです。
 私たちは無意識のうちに、物事を自分の思い通りにしたいという偏った自己中心の目で見ますから、ますますありのままの真実が見えなくなります
。物事を科学的、合理的に考えることができるようになったからといって、苦しみや悩みから解放されるわけではありません。
 そこで、苦悩の原因となっている心のありようを深く見つめ明らかにされたうえで、私たちにも感じ取ることができる言葉で説いてくださったお釈迦さまの教え
(お釈迦さまのさとられた真理、気づかれた真実)を、すべてのいのちを救済する嘘や偽りがない真実の声「南無阿弥陀仏」を聞くのです。
 
お釈迦さまの教えを聞くということは、自分の意のままになる人生を求めていた私の胸中に起こってくる無常感や罪悪感などを縁として、宇宙もこの世もこの人生も何もかもが因縁によって生じ起こっている(縁起)という一切の執着を離れた自然の道理に気づくことです。

 
私たちは「縁起を見るものは、法を見る。法を見るものは、仏(真実)を見る」と仰せられたお釈迦さまが、気づかれ称えられた、「南無阿弥陀仏」という真実の声(真実心)を聞くのです。真実の声を聞くということは、仏さまのお心に接することです。仏さまのお心に接するということは、慈光に照らされて浮かびあがるありのままの私(自己)を見つめるということです。
 そして、本当の自分に気づいていく私は、永久不変の「真理法性真如」と表現され、私たちのはからいがまったく加わらない「あるがまま、ありのままの真実世界」から、形のないものを受け入れることができない煩悩具足の衆生のもとへ、真実に導く手だてとして来られた(あらわされた)阿弥陀と名づけられる如来と、「人間的情感の世界」で触れ合っていくのです。


 
私たちは、
経典やその注釈書はいうまでもなく、人間のはからいを超え自ずからそうなっている自然の真理を人格化した阿弥陀如来像(方便法身尊形)なども一つの縁として、真実に触れるのです。阿弥陀如来のお姿をあらわした絵像や木像などの姿形は、衆生を真実の教えに導くための手だてであり、「南無阿弥陀仏」の衆生救済の「働き」を見る(思い起こす)手がかりです。
 言い添えますと、衆生の心が
自然に仏さまの真理を見きわめる智慧と、穏やかで安らかな慈悲に満たされることを念じて表現された阿弥陀如来の姿形は、経典(仏説観無量寿経)に基づいています。その如来像は、出家後、さとりを開き仏となられた釈迦如来のお姿を手本にされていますから、当然、阿弥陀如来の姿形も釈迦如来のお姿を基にあらわされています。
 要するに、色々な手だてによる「あたたかな心情の世界」で、「阿弥陀と名づけられた仏さま(真実)と「私たち(衆生)は接しているのです


 
さて、阿弥陀如来の真実について、もう少し詳しくお話いたします。
 阿弥陀さまは、自らの名である「南無阿弥陀仏(名号)」に、自身のいのちのすべて(全功徳)を込めて呼びかけていてくださる仏さまですから、私たちが称える「名号そのものが阿弥陀如来」です。
 と申しましても、私たちの耳に届く念仏は、私たちが発した「南無阿弥陀仏」という言葉がそのまま私たちの耳に聞
(聴)こえているだけのように思われるかもしれません。しかし、この言葉の中身こそ心に響いてくる「真実の声(いのち)」なのです。
 阿弥陀さまは、「私がいます。あなたのいのちの帰る故郷(浄土)もあります。私は、どこまでもあなたと一緒にいます」と呼びかけていてくださいます。その一途なお呼び声である「南無阿弥陀仏」を一度でも、十度でも・・・・・、回数にこだわらず称えて(乃至十念)、聞いて、ご返事をする
私は(称名、聞名)、喜びも苦しみも悲しみも阿弥陀さまと一緒です。もったいないことですが、「あなたのいのちを救いたい」という願いそのものの阿弥陀さまの幸せと、その救いの中に生きる私たちの幸せは一つです

 私たちは、自分でさとろう、救われよう、お念仏を称えようと力まなくてもよいのです。なぜなら信心は、私が阿弥陀さまを信じる努力によって生まれるものではないからです。自らが作りあげた信心は、一時的な思い込みで終わる場合が多く、信ずることで得たと思った喜びや感動もいつの間にか消えてしまいます。

 私が救われるのは、私の何もかもをご存じのうえで、「あなたを必ず助けます」と誓われて仏となられた阿弥陀さまの一途な願い、一人働きによるからです。それは、私たちの「はからい」を超えた、阿弥陀さまのお力
(如来の本願力、他力)による無条件の救済です


 
例えば、幼くして亡くなった子は、不慮の事故や災害や病気などによって信仰を求める前に亡くなった人は、常に苦しむ心弱きものは・・・・・、もう救われないのでしょうか。
 一生懸命に祈ったり拝んだりしていなくても、「私はあなたを見捨てることはできません。必ず助けます」と、そっと抱いてくださるあたたかな世界はないのでしょう
か。

 無条件の救済ということは、あらゆるいのちが平等に救われるということです。逆に、少しでも救われるための条件があれば、そこには必ず救われないいのちが出てまいります。阿弥陀さまにとって、これほどつらいことはないのです。


 私たちは、何の見返りも求められない、人知ではとても量り知れない慈悲ばかりの阿弥陀さまのお心を聞いて、すでに救われることが約束されている私であることを知り、その真意を、ただ「南無阿弥陀仏」を、この胸にいただくだけです(如来回向の信、真実信心
 「私の心には、嘘や偽り(虚仮)がいっぱいあります。それなのに、阿弥陀さまのお心の中はまこと(真実)ばかりなのですね。阿弥陀さまに嘘や偽りがないから、『南無阿弥陀仏』に間違いがないのですね」と「名号」をいただくだけです。

 阿弥陀さまが
法蔵菩薩であられたとき、「私の声が聞こえますか。私はあなたを救う仏になります」と本願(設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法)を起こされたのは、どうしても救わずにはいられない衆生がここにいるからです。

 誰でも、ふと過去の出来事
(行為)を思い出し、申し訳ない気持ちや恥ずかしさで胸が痛むことがあります。後悔と反省から、今の性格や行動を良きものに変えたいと思っても、変われない自分にますます落ち込むこともあります
 このような深く重い罪悪感にさいなまれながら、尽きることのない煩悩を抱えもって生きている私に対して罰を与えられるのではなく、逆に、「どのようなあなたであっても、決して見捨てはしません」と慈しみをもって救い取ってくださるのが阿弥陀さまです。
 過去の間違った行為による良心の呵責、負い目が消えるわけではありませんが、何もかも承知で、「あなたはあなたのままでいい」とあたたかく包み込んでくださるお心を聞いて、「わたし
(自我)」の性根が見えて、頭が下がって、思いあがっていたわが身の愚かさに驚く
しかありません。

 愚かさの一例をあげてみます。
 
私たちは、
おだやかな気持ちのときには愚痴や悪口を言わないで、感謝の思いと謙虚さも忘れず、思いやりのあるやさしい人間であるように努めることができるかもしれません。そうありたいと思います。
 しかし、煩悩を刺激する縁に触れれば、たちまち欲が、怒りが、妬みが起こり、他を批判する心は激しくなり、相手を思いやる心は少なくなり、自らを省みることは忘れ・・・・・。
 もっと言えば、自分自身のことは自分なりに理解しているつもりでいても、実は、心の奥底はわかっていないのです。ですから、煩悩の炎が燃えあがると、「わたし」の中から次にどのような愚かな思いや行為が出てくるのか自分にもわからないのです


 
それなのに、このような私たちを包み込む大きないのちがあります。本来、悪行の酬いとして地獄の世界に落ちても不思議ではない私を、「南無阿弥陀仏」の一声をもって抱き取り、この赦されるはずのない私を赦さずにはいられない、救われざる私を救わずにはいられない大慈悲心があったのです(「唯除五逆 誹謗正法」のお心の真意)
 
阿弥陀さまは、悪いことはしないように望まれますが、それでもやむなく過ちを犯し悪業を造ってしまう衆生がいれば、どうしても見過ごしにできず「私の声が聞こえますか。私があなたを助けます」と呼びかけ、大慈悲をもって救済に動かれるのです。
 
「救いとは何ですか」、「何が救われるのですか」などとあやふやに過ごしている衆生を、「とにかく助けます」と理屈抜きに抱き上げられる大慈悲に対して私たちにできることは、この大きないのちの「お働き」にハッと気づいて、阿弥陀さまが自らの名をもって呼びかけられるお呼び声、「南無阿弥陀仏」をそのまま受け取ることだけです。
 注がれている深い慈しみの心に触れて、すでに「救いの中に生きている私」に気づくことこそが、救いです
(現生正定聚)


 阿弥陀さまの存在や極楽浄土の有無を知的理解によって確認しても、心は晴れず、信じられるか信じられないかの問題で終わってしまうかもしれません。
 救いの中に生きるということは、阿弥陀さまのお心(すべてのいのちを救いたいという願いそのもの)に触れた私が、「このいのち、このまますべて阿弥陀さま(真実)におまかせいたします」という世界に立つことです。
 とは申しましても、我がいのちを他に委ねきることができないのが衆生です。私たちは、ともすれば自分の煩悩の深きことを忘れて仏法をとらえます。「自分のはからい」から、離れられません。素直に阿弥陀さまのお心を受け入れることが難しいのです。
 だからこそ、如来に抵抗する私をどこまでも見捨てないで、まるごと引き受けて、「何もかもわかっています」とあたたかな慈悲の世界に抱き取ってくださる
阿弥陀さまのお心を、煩悩の深きまま聞かせていただくのです(聞法)
 そして、まっすぐに生きることができない私が、仏さまの教えに照らされた一筋の如来の道(阿弥陀さまのお心)に立ちかえりながら、日々、新たに生かさせていただくのです。


 私たちは、私をこの世に存在させた大いなるいのち(無為自然)へ帰っていくまで、安らかで浄らかな「自然の浄土」に往生する日まで、毎日新たないのちを、二度とない今日一日を生きるのです。
 それぞれのいのちが幸せであってほしいと願いながら、わが身をかえりみつつ、失敗を繰り返しながらも「今日こそ、きちんと生きてみよう」という気持ちを忘れないで、因縁のままにこの世のつとめを果たそうではありませんか。

 自分にとって良いことは受け入れるが、その反対は受け入れられないというのでは、常に不安と苦悩の絶えない生活となります。紙の表と裏を切り離せないように、生死、苦楽、幸不幸などの問題も切り離すことはできません。
 しかし、私たちは、どのような状態であっても慈しみの光に照らし護られています。若
かろうと老いようと、健康だろうと病弱だろうと、親しい人がいようと孤独だろうと、裕福だろうと貧乏だろうと、好かれようと嫌われようと・・・・・、思い通りにいかない人生です(業道自然)が、ただ一つ、このいのちをどこまでも見捨てずにいてくださる世界に生きられることほど力強いものはありません。
 一人で生まれ、一人で人生を終えなければならない私たちが(独生、独死、独去、独来)、阿弥陀さまの衆生救済の働き(阿弥陀如来の本願力)に私のいのちのすべてをおまかせして生きることは、弱いようで、実は何よりも強い生き方なのです。

 阿弥陀さまのことを思うときも、忘れているときも、お浄土に生まれることを喜べないときも[別稿
(浄土に生まれることを喜べないものこそ 「歎異抄第九条」)、常に阿弥陀さまの懐に抱かれているいのちです。
 私の何もかもをわかっておられる阿弥陀さま
(親)と、阿弥陀さまにすべてをおまかせした私(子)との絆ほど、自然で、安らかなものはありません(願力自然)



 私は、あなたを助けるために、南無阿弥陀仏の名号となってここに来ました。あなたのいのちが大切です。どのようなあなたであっても、必ず助け、救って幸せにします」、「より善い人間に変わりたくても変われないあなたは、それが自分の姿だと受け止めて、申し訳ないという思いを大切にしながら、ありのまま(煩悩をかかえたまま)生きてゆきなさい」、「いつでも私は、あなたとともにいます。いつまでも一緒です」という阿弥陀さまのお心を受け取ったそのときから、どこまでも凡夫としてしか生きていけない私にとっての阿弥陀さまは、「真実を知らせる手だて(方便)である」とか、「理念である」などという言葉も思想も超越した、まさに「私のいのちそのもの」の存在となられました。


 お念仏は、無理に称えるものでも、力んで申すものでもありません。また、称えようと思っても、ともすれば自分の常識や知識が邪魔をしてなかなか称えられないものです。それにしても、私たちの口から「南無阿弥陀仏」が出てくださる(称える)ということは容易なことではないようです。
 しかし、私たちは、私たちに称えられる「南無阿弥陀仏」という声の姿形となられてまでして、衆生を救いに来てくださっている「阿弥陀さまの願い」を知らされた身ですから、素直に「南無阿弥陀仏」を称えさせていただきましょう。人の前で都合が悪ければ、一人静かに「南無阿弥陀仏」と申させていただきましょう。
 うれしいとき、悲しいとき、さみしいとき、苦しいとき、腹が立つとき、自己嫌悪に陥ったとき、阿弥陀さまを思うとき・・・・・、そして申しわけないことですが、お念仏がありがたくも何ともないときでさえも、そのときの心のままに「南無阿弥陀仏」と申させていただきましょう。
 いずれにしても、尊い「名号」です。

 そして、お念仏を忘れている自分に気づいたら、そのときからまた「南無阿弥陀仏」と申させていただけばよいのです。お念仏を称えるのに、一々理屈や理由はいらないのです。
 私たちがお念仏を称えようと称えまいと、阿弥陀さまを思おうと思うまいと、阿弥陀さまはずっと私たちを思い呼びかけていてくださいます大悲無倦常照我)

 
「法蔵菩薩」は、清浄真実の心を持たない私たちを助けたい一心で、衆生救済の誓いのもと、五劫もの思惟による発願と兆載永劫という途方もないご苦労をされました。そして、十劫のいにしえに「名号」を成就されて「阿弥陀如来」となられました(仏願の生起本末)
 その「法蔵菩薩」の願いとご苦労が花開き実を結ぶときが、私の称えさせていただく「南無阿弥陀仏」です。「阿弥陀」と名づけられた「如来」の真実が、今、まさにわが身の上に成就されているのです。


 
「南無阿弥陀仏(名号)」は、いくら称えてもなくなるということはありません。
 その理由は、尽きることなく私たちの心に届く「南無阿弥陀仏」の源流こそが、阿弥陀さまから発せられるお呼び声だからです。「私の声が聞こえますか。あなたのいのちが大切です。どのようなあなたであっても、私が必ず助けます。必ず救って幸せにします」と呼びかけ働き続けていてくださる阿弥陀さまの真実心だからです


 一声の「南無阿弥陀仏」があってこそ、次の「南無阿弥陀仏」に遇えるのです。そして、次々に「南無阿弥陀仏」に包まれてゆくのです。
 ある日、凡夫が「ナンマンダブ」とつぶやくのです。お念仏を申すことが難しいはずの私の口から「ナンマンダブ」が・・・・・。「ナンマンダブ」をつぶやいている自分に気づき、それがうれしくて、また「ナンマンダブ」を称えている私です
(称名、聞名)
 「南無阿弥陀仏」のお心をいただいたら、何もかもが「無量寿」の中にあり、「無量光」とともにあることに気づきました。


 
また、阿弥陀さまの願いの中に生きる私たちにとって、「称名念仏」は、私たちを慈しみ支えてくださっている阿弥陀さまの「お呼び声」であるとともに、救いの中に生かされている私たちにできる阿弥陀さまへの「ご返事」、せめてもの「ご恩報謝のつとめ」でもあります。
 なぜならば、阿弥陀さまと対話しながら、
お心に包まれながらお念仏を申して生きるということは、どこかで、誰かに、
阿弥陀さまの「あなたを必ず救って、幸せにします」という真実のお呼び声(南無阿弥陀仏)を聞いていただくご縁となるのですから・・・・・(自利利他)


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【八】阿弥陀さま(阿弥陀如来)とは

 阿弥陀さまは、私たちにはとてもり知れない光無量光といのち無量寿の仏さま(真実)です。

 すべてのいのちを包み込んで救い取られる阿弥陀さまのことを、古代インドの言葉である梵語
(サンスクリット語)では、「アミターバ、Amitābha(限りない光)」、「アミターユス、Amitāyus(限りないいのち)」と申します。後に、その言葉が中国に伝わり、翻訳者によって「アミタ、Amitā(無量=量ることができない、限りがない)」が「阿弥陀」と、梵語の発音がそのまま漢字に写されました(音写、音訳)
 無量
(限りない時間と空間)という無限大の広々とした世界です。

 永遠に変わらない、過去も、今も、未来も不変の真理である無上の仏さまは「真実」そのもので、私たちに認識できるような色も形もおありではありません。それゆえ、私たちにも「真実」が認識できるように声、「南無阿弥陀仏
(名号)」という姿形をもってあらわされた仏さまが「阿弥陀如来」です。
 このように申しますと、私たちの幸せのために限りなく尽くしてくださる、この上なく慈悲深い姿形の阿弥陀さまは、具象化し人格化された仏さまのように見えますが、実は、この仏さまの本質こそが私たちに認識できる真実、宇宙のいのちそのものであられるのです。
 そして、その「真実」は「阿弥陀仏」と名づけられ、「無量光仏(限りなき光の仏)」、「無量寿仏(限りなきいのちの仏)」と表現されました


 お釈迦さまが、「人生は苦しみです」と仰せられたように、苦しみというものは数限りがありません。生・老・病・死の四苦に愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦の四苦を加えたものを八苦と申します[別稿 (人生という旅)]
 それぞれがたいへんな苦しみですが、阿弥陀さまは、その一つひとつの苦悩にそれはそれは大きな慈しみとあわれみの心
(大慈悲)をもって接していてくださいます。

 例えば、「愛別離苦」という悲しい、忘れることもどうすることもできない苦しみ一つをみても、大きな大きな救いの手が差し伸べられています。

 「法蔵」という菩薩さまは、「すべてのいのちを見捨てることなく、必ず浄土に救い取ります。もしも、救えないいのちが一つでもあれば、私自身も仏にはなりません」という誓いを成就されて、「阿弥陀」という名の仏さま(如来)となられました。

 いのちの救済のすべては、この阿弥陀さまのお心(誓願)から始まります。

 阿弥陀さまは、私たちを外からながめてあわれんでおられるのではありません。阿弥陀さまにとって、私たちの痛み悲しみは自身の痛み悲しみなのです。「あなたが救われ幸せになれないのなら、私も仏にはなりません」と仰せられるのです。自身のいのちと私たちのいのちが一体であると、心底信じていてくださるのです。
 そのため、この世ではどのような形にしろ必ず別れゆかなければならないいのちといのちが、「どうしてもあなたを救い、幸せにしたいのです」と仰せられる阿弥陀さまに抱き取られて、ともに安らかで浄らかなお浄土に導かれて往くのです

 別れに
対して無力な私たちは、「あなたを必ず浄土に救い取ります」と誓われて仏となられた阿弥陀さまの一途な願いにこの身を預けて、安らかで浄らかなお浄土(仏さまの世界。一切の煩悩やけがれを離れた、清浄なやすらぎの世界。阿弥陀如来の衆生救済活動に参加させていただき、このいのちが役立つ世界)に往くのです。
 孤独に散っていくのではなく、輝くいのちとしてお浄土に生かされていくのです。その結果、救われたかけがえのないいのちといのちが再び出会うのです。必ず再会するのです
(倶会一処)


 季節がめぐっても忘れられない死別した愛する人、つらい別れをしたなつかしい人、会いたくても二度と会えない大切な人・・・・・、「愛別離苦」という事実には別れという悲しみだけが残るはずなのに、ところが阿弥陀さまのお力により悲しみを超えて、もう苦しまなくてもよい、苦悩という言葉さえないあたたかな世界で再会するのです。ということは、今すでに私たちは、そばにいてほしい人、そばにいてあげたい人との再会に向けて、その道行きを歩み始めているのです。
 この世では色々あったけれども、一切の執着を離れた慈悲ばかりのお浄土で、如来に救われたいのちといのちが真実の出会い
(出遇い)をさせていただくのです。遠いようで近い世界です。まさに、「すべてのいのちあるものを仏にしたい」という願いを起こし、その願いを成就された阿弥陀さまの世界です。
 それは、単に未来の浄土往生を待ち望むということではなく、お浄土に救い取っていただくことが決まった身であることを喜びながら、一日一日を大事に生きることです。その日そのときのご縁を、生涯に一度限りのことと大切にいただくのです(一期一会)。そうした自覚をもって生きるところに、人生の意義が見いだされるのではないでしょうか。

 お浄土は、私たちが知的に理解することが難しい世界です。しかしその世界は、安心して休息できる場所であるとともに、私たちのはからいから離れた、限りない願い(本願)の世界なのです。
 お浄土は、阿弥陀さま
(真実)に抱かれて救われていく、私たちの思慮分別を超えた真実世界です。真実にまかせきった、私たちのいのちが帰する、光といのちの世界(無量光明土)なのです。

 また、私たちの苦しみや悲しみを自分の痛みとされ、「どうしても、あなたを助けます」と行動を起こされた阿弥陀さまのことを、「不可思議光如来」とも「無量寿如来」とも申しあげます。広々と量り知れない、限りない光智慧といのち慈悲の如来さまです。
 「如来」さまとは、梵語で「タターガタ、Tathāgata」と申し、「真如
(あるがままの真実、真理そのもの)から、このようにいのちを救うためにやって来た」という意味で「働き」をあらわす言葉です。要するに「永久不変の真理、法性、真〈如〉」の世界から、形のないものを受け入れることができない私たちのところへ、真実を知らせるために「現れ〈来〉られた」仏さまのことです。

 私たちのところへ「南無阿弥陀仏」の名号となって来られた阿弥陀さまは、いつでもどこでもありとあらゆるところで(尽十方)、何ものにもさまたげられることのない智慧と慈悲の光明をもって(無碍光)、すべてのいのちを救い取られます。
 それゆえ、「南無阿弥陀仏」の名号を「帰命尽十方無碍光如来」とも申しあげます。


 煩悩を抱えて生きていくしかない私たちの傍らに、そっと寄り添っていてくださる阿弥陀さまです。私たちから離れて、「真実の働き」があるわけではないのです。
 
私たちは、衆生救済の「お働き」である無碍光如来の名「南無阿弥陀仏」を聞き称えつつ、因縁によって生起する現実を受け入れながら、生かされている日々を大切に過ごします

            
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【九】真実に触れる

 さて、私たちには認識することが難しい「縁起」、「空」
という一切の執着を離れた真実(自然の道理)と、すべてのいのちを救い取られる「阿弥陀如来」は、違う事象のように見えますが同じ真実です。

 このことは、きわめて大切なことです。

 そもそも真実には、私たちに認識できる具体的な色や形がありません。固定的な実体としての色や形があるものは、すべて移り変わり壊れてゆきますから真実ではありません。真実を認識することは、たいへん難しいことです。

 ところが、永遠に変わらない真実とは何であるかをさとられて、その内容を教えてくださったお釈迦さまによって、私たちも真実に触れることができたのです。
 何もかもが因縁によって、常にとどまることなく移り変わっていることを見抜かれたお釈迦さまから、「縁起」という真実を教えていただかなかったら、私たちもいのちの本当の姿に気づくことがなかったでしょう。

 
万物は、限りない時間と空間を、ありのままに因縁生起しているのです。

 すべてのものにいのちがあり、そのいのちは、限りない時間と空間と一体です。そして、太陽、星々、風、雨粒、一輪の花、小鳥の鳴き声、私・・・・・、何もかもが「あるがまま、ありのまま」の永遠の流れの中を縁起するいのちとして息づいています。何もかもがいのちであり、光であり、心であり、時空を超えた広大無辺の宇宙なのです。

 お釈迦さまは、自然の道理である因縁生起という、「真実」に実際に気づくための「手だて」を示されました。
 それは、色や形をたよりに生きている私たちにも認識できうる姿形をもって、私たちをあたたかな広々とした真実世界へと導いてくださる「阿弥陀
(Amitābha、限りない光)(Amitāyus、限りないいのち)」と名づけられた如来のお心(真実心)についてです。
 その如来は、真如(あるがままの真実、真理そのもの)から、形のないものを受け入れることができない私たちのところへ、私たちを真実へと導くために、そして生きる支えとなるために現れ来られた仏さまです。
 この仏さまと「心情の世界」で触れ合ことで、合理的な時と所を離れては存在することができないと思っていた私のいのちが、実は、限りない時間と空間という私たちの認識や理解の限界を超えた大きないのちと無二の存在であることを知ったのです。

 こうして私たちは、「
阿弥陀」という限りない光といのちからのメッセージに触れることによって、「有るか」「無いか」というとらわれや思慮分別を離れた、おのずからそうであり、そのようになっている「自然(じねん)の真実」に触れることができたのです。
 そこには、一生の何もかもを、「因縁です」と受け入れる私がいるのです。

 私たちは、生死を背負い明日をも知れない身であるという本質を明らかにしてくださったお釈迦さまの教えによって、「阿弥陀」と名づけられた限りない光(空間)といのち(時間)のはたらき」に帰して生きるという「いのちの拠り所」を得たのです。

 結句、光といのち、空間と時間、見えるもの見えないもの・・・・・、何もかもが「ナンマンダブ(南無阿弥陀仏)です。

            
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【十】人生という旅

 私たちはこの世に生まれました。人生という旅が始まりました。

 この世に生を授かったいのちが、自らの幸せを求めて歩みを進めるのは言うまでもないことです。しかし、人生という旅は豊かで楽しいこともありますが、その一方、自分の思い通りにならない無常の旅でもあります。
 この世に生まれた私たちには、避けて通れない苦しみが伴います
生苦。誰でも歳を重ねていくと、否応なしに老いる・老化という現実に苦しみます(老苦)。健康なはずの私がまさかの病気になり(病苦)、そして必ず死がやってきます。死の要因は無数にありますから、どのような形でそのときがくるのか誰にもわかりません(死苦)
 更に、愛する人との悲しくつらい別れもきますし
愛別離苦、逆に怨みや憎しみを抱く人に会わなければならないこともあります怨憎会苦。求めるものがたくさんあっても思い通りに得られるわけではなく、手に入れても限りない欲心のために満足を知らず求不得苦、心身の欲望にいたってはいつまでもどこまでも盛んです五蘊盛苦
 あたたかい涙もあれば冷たい涙もあるし、あたたかい笑いもあれば冷たい笑いもあるし、あたたかい出来事もあればつらい出来事もあるし・・・・・、本当に色々なことがあるわけで、どこへいっても苦しみ
四苦八苦というものがついてくる旅です。

 その旅の途中、お釈迦さまの説かれた教え(仏教)を聞く縁に触れたことにより、闇を闇とも知らない私たちの行く手を照らしてくださる阿弥陀さまに出遇いました。阿弥陀さまの思い(光)に照らされて、心の中の闇に気づきました。

 例えば、善い行いを求め、悪い行いは避けようとしていたのに、自分の都合によっては人としてのあり方や生き方に外れた行為をしたことに気づきました。私の中にある狡さや弱さが、そして、一人よがりの私が見えました。心のすみのすみまで照らしだされて、愚かな私がいるから阿弥陀さまがいてくださることを知りました。

 お釈迦さまのおかげで阿弥陀さまの救いに出遇い、生きる術に不器用なまま、色々な問題をかかえたまま生きていける道を知りました。
 その日から、目的地もわからず、むなしく時を過ごすこと
空過が多かった私の長い迷いの旅も無駄ごとではなくなりました。むなしい迷いの時間があったからこそ、ありのままの私を受け入れてくださる阿弥陀さまに出遇えたのです。

 縁によって生かされている私たちです。私たちの認識ではとても確かめられないたくさんの因縁によって、今のこの私がいます。
 今の私たちは、呼吸するごとに未来を吸い、過去を吐き出して存在しています。この私が存在する今は、二度とありません。今が二度とない
(無常)ということは、やはりたいへんなことです。無常をしっかり見つめるとき、生きていることの事実の重みがわかります。

 今、最初で最後の一日一分一秒、今日が過ぎていこうとしています。風のようにやって来て、風のように去っていく一日一日を積み重ねていく、このかけがえのない人生の旅は、迷いの境涯からお浄土といういのちのふる里へ帰る旅です。人生がむなしく終わることのない、一筋の真実に生きる旅です。

 それは、いつ、安らかで浄らかないのちのふる里へ帰りつくかは大いなるいのちの流れにまかせて、阿弥陀さまに見守られながら、今日という日を尊ぶ旅です。

            
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【十一】人生を振り返って後悔することはありませんか

 ところで、人生を振り返って後悔することはありませんか。罪の意識に苦しむことはありませんか。たまらなくさみしいことはありませんか・・・・・。

 誰でも、少なからず後悔という重荷を背負っています。取り返しのつかないことほど、忘れてしまいたいことほど、いつまでも心の中で生き続けます。
 反省は懺悔の心です。罪の重さに心が痛むことは、「申しわけありません」という気づきが芽生えている証拠です。
 「申しわけありません」と思う気づきは、私たちがこの世で行なった善い
(善)こと善からぬ(悪)こと
のすべてを知り尽くされたうえで、「どんなあなたであろうと、決して見捨てはしません摂取不捨」という、阿弥陀さまのお心に触れる縁となることでもあります。

 阿弥陀さまは、私と一緒に苦しんでくださり、悲しんでくださっています。そして、いつも私たちの心の底を静かに照らされています。
 その深い思いに照らされて、自分の愚かさに気づくときに芽生えるのが、心の底から湧き起こる懺悔の気持ちです。

 何度も何度も自己嫌悪に陥ったり、心がくじけたり、悲しいほどの後悔を繰り返しながらも、「申しわけありません」という気持ちが少しでもあれば、「元気をだそう。何か今からでも私にできることはないだろうか」、「今日一日だけでも、背筋を伸ばして前を向いて素直に生きてみよう」と、毎日新たな一日を、新たないのちを歩むことができるようになれるかもしれません。
 なぜならば、ありのままの私をまるごと受け入れてくださる阿弥陀さまのお心があるからです。「これではいけない」、「こんなはずではない」と思いながら何度も何度も失敗を繰り返す私を見捨てないで、「どこまでもあなたを支えます」と仰せられる阿弥陀さまのお気持ちが、私の生きる力となってくださるからです。

 私たちは、
過ぎ去った過去を変えることも、明日の私に触れることもできません。しかし、今日の私の生き方、いのちのありようは見つめることができます。
 私たちは、生きていることをあたりまえのように思っていますが、あらゆるものは縁により時々刻々と生滅変化(諸行無常)していますから、予期せぬ病気や事故などによって、今日が人生最後の日となるかもしれないのです。「死」を思うとき、「生きている」ことへの気持ちも違ってきます。

 だからこそ、本当にしたいこと、しておかなければならないこと、今日一日の私のいのちにとって何が大切で、何が不必要なのか、しっかりと見つめて整理しなければいけません。
 もし、今日が人生の最後の日だとしたら、残された時間があとわずかだとしたら、私は何を思うでしょう。何をするでしょう。限られた時間の中でかけがえのないものに、本当に大切なものに気づいたら、勇気をもって不要なものを片付けることも大切なのではないでしょうか。
 そして、今日一日のいのちの尊さに気づくとき、「あなたをどうしても助けたい」と誓われた阿弥陀さまの懐に包まれて、生死を越えて生かされているいのちも見えてきます。私をこの世に誕生させ、存在させた大いなるいのちの故郷へと続く、永遠の時間と空間(無量寿)の光に照らされた道も見えてきます。

 また、人生にはつらく苦しいことも多々あります。暮らすことにつまずき、生きることに戸惑うこともあるでしょう。理不尽な仕打ちに傷つけられることも、何を信じてよいのかわからなくなることもあるでしょう。
 誰もがみな心に何らかの傷をかかえて生きています。
 お釈迦さまは、「人生は苦しみです」と仰せられました。この世は思い通りにならない、苦しみの尽きない、耐え忍ばなくてはならない世界
娑婆忍土です。しかし、苦しみや悲しみという縁を通して、本当の幸せとは何かということを問う心が起こったら、真実に耳を傾けることができたら・・・・・。誰にも言えなかった私の心の中を阿弥陀さまにさらけ出せたら、阿弥陀さまのお心を知り、「ああそうだったのか」と合掌している私がいたら・・・・・転迷開悟、それは尊いことです。

 
阿弥陀さまが本願を起こされた
のは、どうしても支え、救わずにはいられない衆生がここにいるからです。
 お釈迦さまのお心も、阿弥陀さまのお心も、すべてのいのちを救い幸せにするという大慈悲のお心です。すべてのいのちを救うとは、この私も絶対に救われるということなのです。
 阿弥陀さまは、さみしくて悲しくて怖くてうつむく私たちをそっと抱きあたため、淡々と凛々と悠々と生きられるようにやすらぎを、喜びを与えてくださる
抜苦与楽のです。阿弥陀さまも、私たちの笑顔が見たいのです。自然な笑みは、安心感の中でしか出ないのかもしれません。

 何が起こっても、どんなことがあっても、阿弥陀さまがご一緒です。これだけは忘れてはいけません。どれだけ裏切られ傷つけられても、決して衆生を見捨てられない阿弥陀さまの大慈悲の中に、すでに私たちはいるのです。

 私の眼に見えない真実、この「幸せになってほしい」と願い続けてくださっている阿弥陀さまのお心に気がつくかつかないか、この違いは大きいのです。

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【十二】お釈迦さまの最期、入涅槃

 お釈迦さまはさとりを開かれた35才のときに、「私は、迷いの中にいる人びとに無常、無我などの真理を説いて、すべての事象が縁によって起こっていること
(縁起)を伝えましょう」「私は、真実を一人でも多くの人に伝えながら、自然のあるがまま、ありのままの姿(相)に身をまかせて生きてゆきましょう」という思いから説法の旅に出られました。
 ついに、阿弥陀さまのお呼び声「南無阿弥陀仏」を聞き、阿弥陀さま
(真実)に包まれ、すべてのいのちが苦しみから解き放たれることを願われたお釈迦さまが、正しい道理を知らないで迷いの中にいる私たちのために最初の第一歩を踏み出されたのです。

 それから45年が過ぎました。お釈迦さまは80才の老人となられました。お釈迦さまの最期はどうだったのでしょう。

 お釈迦さまとのこの世の別れが近いという事実を知った弟子たちは、動揺しました。悲しみなげく弟子の思いを受け止められたお釈迦さまは、「悲しんではいけません。生あるものが死を迎えるのはあたりまえのことです」、「私がこの世にきたのは、真実を伝えるためでした。今日までずっと話してきたとおり、何もかもが原因と条件の様々な関わりによって変化し生じているのです。すべての形あるものは壊れ、出会ったものには必ず別れがきます」、
「これからは、真実に救われて生きる自分を拠り所として、自らが灯となるように歩みなさい。そして、私が今まで説いた法(真実の教え)を生きる灯として歩みなさい(自灯明、法灯明)」と仰せられました。
 真実に導かれ自然の道理に身をまかせて生きられたお釈迦さまは、真実に目覚めた人
(仏)としての姿を最期まで示されたのです。


 私たちは縁によってこの世に生まれ、縁によってこの世の旅をし、また縁によって量り知れなく限りない光といのちの宇宙の営みに帰っていくのです。けっしてなくなるのではなく、私をこの世に存在させた大いなるいのちへと帰っていくのです。私をこの世に誕生させた大もとのいのちに、このいのちをお返しするのです。

 阿弥陀さまの「そのままのあなたを助けます」というお誓いに包まれて
生死無常の道理により、安らかな最期であろうと見苦しい最期であろうと、どのような形で最期を迎えようと、私たちがあれやこれやと思いわずらう必要のない、ただ如来に「はからわれ、しからしめられているあるがまま、ありのままの真実の世界(自然法爾)」に、「自然の浄土」に帰っていくのです。
 お釈迦さまのさとりが報われていく世界である、阿弥陀さまの安らかで浄らかなお浄土
真実報土に往生するのです往相

 物事は因縁によって成り立ち、すべてがかかわりあっていて、一つとして単独で存在するものはありません。
 従って、すべての生きとし生けるものは、人種・民族・宗教・性別・職業等々によって分け隔てをされることなく、それぞれのいのちが輝きを得て、苦しみから解き放たれなければなりません。
 お釈迦さまの生涯は、その答え
(さとり)を私たちに伝えてくださるものでした。

 お釈迦さまは、クシナガラ(拘尸那掲羅)沙羅の樹の間に静かに横たわり、草花がゆっくりと枯れて土に還っていくように、生きるも死ぬも自然のことと受け入れられ、あるがままに入滅されました。広くて深い無量の世界へ、光といのちの世界無量光明土へ入涅槃されました。
  涅槃は、一切の執着を離れた苦悩という言葉さえない・・・・・、お釈迦さまが身をもってお示しくださった、私たちのいのちの帰する世界
(浄土)です。

            
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【十三】お釈迦さまの思い

 お釈迦さまの思いでこの世を見渡すと、私たちには無価値とも思えるものまでもが、いのちの光に輝いています。すべてが、ありのままの自然の光に照らされ輝いています。

 見えるもの、見えないもの、触れるもの、聞こえるもの・・・・・、何もかもが光といのちに、「南無阿弥陀仏」に呼びかけられています。それは、美しくおごそかな自然の空間です。

 思えば、お釈迦さまの説法の旅は、真実のありようを阿弥陀さまのお姿をもって教えてくださる旅でした。「あなたを必ず助けます」と仰せられる阿弥陀さまの真実が、お釈迦さまを通して私たちに届けられたのです。

            
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【十四】「歎異抄」第一条、第三条、第九条

 最後に、〔1〕親鸞さま
(親鸞聖人【釋親鸞、浄土真宗の宗祖】)がお書きになった「教行信証顕浄土真実教行証文類の中にある正信念仏偈の一節、〔2〕「末灯鈔」に収録されている自然法爾章の一節、〔3〕親鸞さまの直弟子である唯円さまが書き残された「歎異抄」の第一条、第三条、第九条、〔4〕蓮如さま蓮如上人のお手紙である「御文章」の中から聖人一流章を、現代語に訳してお伝えしておきます。

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(1) お釈迦さまがこの世に生まれ出られた目的は、ただ阿弥陀さまの「すべてのいのちを救う」という本願を私たちに伝えてくださるためでありました。 『如来所以興出世 唯説弥陀本願海 (正信念仏偈)


(2) ありのままの真実の姿である無上の仏さまは、真実そのもので色も形もおありではありません。色も形もおありではないから、自然(じねん)というのです。固定的な実体としての姿形がおありである場合は、このうえない完全なさとりとはいいません。
 私たちの思慮分別を超えた色も形もない、おのずからそうであり、そのようになっている真実を知らせようとして、はじめて阿弥陀仏
(阿弥陀如来)と申しあげるのだと聞きならっています。

 阿弥陀さまは、一切の執着を離れた、因縁によってあらわれ起こる「あるがまま、ありのままの真実」を、自然のありようを私たちに知らせてくださる手だてであられます。
自然法爾章


(3) 〈歎異抄第一条〉  「阿弥陀さまが仏さまになられる前の法蔵という名の菩薩であられたとき、『すべてのいのちを見捨てることなく、必ず浄土に救い取ります』という願いをたてられました。
 そして、『私の名(南無阿弥陀仏)を一度でも(十度でも・・・・・、回数にこだわらず)称えた(聞いた)あなたが、もしも安らかで浄らかな世界(浄土)に往生できなければ私も仏にはなりません』という誓いを守られて阿弥陀如来となられました。
 
かくして仏となられた阿弥陀さまは、自らの名である「南無阿弥陀仏(名号)」に、自身のいのちのすべて(全功徳)を込めて衆生に呼びかけられました。

 その阿弥陀さまのお心に触れ、『私も阿弥陀さまの名
(南無阿弥陀仏)を称えて(聞いて)みたい』という思いが私の中に起こったとき、『そのままのあなたを助けます。あなたを必ず救い取って絶対に見捨てはしません』という阿弥陀さまに見守られながらこの人生を生きて、生ききったときにお浄土に往生させていただく身の私であることに気づきました。
 『そのままのあなたを助けます』と呼びかけられる阿弥陀さまのいのちと、『ありがとうございます』と安心して返事をする私のいのちが、『南無阿弥陀仏』の名号によって固い絆で結ばれたのです。

 阿弥陀さまの『あなたをどうしても助けます』という願いは、老人も若者も善人も悪人も分け隔てされません。ただ、差し向けられた阿弥陀さまの願いをそのまま受け取る心がもっとも大切であると心得なければいけません。
 なぜならば、阿弥陀さまの願いは、もともと煩悩のために罪重く悩み多い私たちを救うためにおこされたお慈悲の誓いだからです。

 したがって、阿弥陀さまの願いを受け取ったからには、『私が救われるためにはもっと善い行いをしなければいけないのではないか』などと心配する必要はありません。
 阿弥陀さまは、自らのいのちのすべてを『南無阿弥陀仏』という本願の名号にこめて私に呼びかけ、その『南無阿弥陀仏
名号)』を称える(聞く)私を無条件で救いとられるのですから、お念仏よりも優れた善はどこにもないのです。

 また、『私のように悪い行いがあってはとても救われないのではないか』と心配するかもしれませんが、大丈夫です。
 どんな悪い行いでも、阿弥陀さまの本願の前に立ちふさがるほどの悪は決してないからです」と、親鸞さまは仰せられたのです。


(4) 〈歎異抄第三条〉  「善人でさえも、お浄土に往生することができるのです。そうであれば、なおのこと悪人の往生は間違いがありません。ところが世の中の人々は、『悪人でさえ往生をさせていただけるのだから、まして善人はいうまでもないことです』と言っています。
 この言い分は一応もっともなようですが、『煩悩のために苦しむ衆生をどうしても助けたい』という阿弥陀さまのお気持ちにはいています。

 そのわけは、善い行いをして自分の力でお浄土へ往生をしようとする人は、自分を正当化し、自分の力を信じるがゆえに、『そのままのあなたをどうしても助けたい』という阿弥陀さまのお気持ちにまだ気づいていないからです。
 しかし、「あなたを必ず助けます。私に帰しなさい」と、すべてのいのちに分け隔てなく呼びかけられる阿弥陀さまのお心に気づけば、どんなに罪の重さに心が痛んでいても、誰でも阿弥陀さまによって必ずお浄土に救い取られるのです。

 あらゆる煩悩を身にそなえている私たちは、どのように自分の力で善い行いを積んでみても、結局迷いから離れることはできません。
 阿弥陀さまはそのことを心底あわれにお思いになって、『どうしても力のないものを助けよう』と本願を起こしてくださったのです。

 その本願のご本意は、自分で善い行いが積めると思っている善人よりも、自らの内側にある心の闇を見つめて、『私は、いくら善い行いを積んでも、結局のところ救われ難き罪も煩悩もあり余るほど具わっている悪人です』と打ちひしがれているものに対して、ことに、『安心しなさい。私が、あなたを必ず助けます』というお気持ちですから、その阿弥陀さまのお心に気づいてすべてをまかせきった悪人こそ最初にお浄土に往生をすべき人です。
 そこで、善人でさえも往生をさせていただくのだから、まして悪人はなおさらのことです」と、親鸞さまは仰せられたのです。


(5) 〈歎異抄第九条〉  「私は口にお念仏(南無阿弥陀仏)を申しておりますものの、心に踊りあがるような喜びが湧き起こってきません。
 また、少しでもはやくお浄土へ行きたいと思う心もこりません。
 こんな浅ましいことで大丈夫でしょうか。これはいったいどう思ったらよいのでしょうか」とお尋ねしたときに、「親鸞もそれと同じ悩みをもっていたのですが、唯円房、あなたも同じ思いでしたか。

 よくよく考えてみますと、お浄土に往生するということは天に踊り地に踊るほど喜ぶべきことなのに、それが私たちには喜べないのです。
 しかし、それでこそいよいよお浄土に往生させていただくことに間違いがないと存じ上げるのです。喜ばねばならないはずの心をおさえて喜ばせないのは、煩悩のしわざです。
 阿弥陀さまは、かねてよりそのことを見抜かれていて、私たちを煩悩具足の凡夫と仰せになられているのですから、阿弥陀さまの本願はこのように浅ましい私たちのためのものだったと気づかされて、ますます頼もしく思われます。

 また、急いでお浄土に行きたいとあこがれる心も起こらないで、少し病気でもすると死ぬのではないかと心細く思うのも煩悩のしわざです。
 久遠の昔より迷い続けてきたこの世という苦悩のふる里には、捨てがたい愛着があるのに対して、まだ生まれたことがない安らかで浄らかなお浄土には、少しも恋しい思いが起こらないのです。
 それはすべて煩悩のしわざです。
 しかし、この世にどれほど執着して名残しんでいても、この世の縁がつきて力なく生涯を終えるときには、必ずお浄土へ往生させていただくのです。阿弥陀さまは、急いでお浄土へ行きたいという心の起こらないものを、特にあわれに思ってくださるのです。
 それだからこそ、大慈大悲の本願は、私のようなもののために起こしてくださったのであると、ますます頼りになって安心であり、お浄土で仏にしていただくことは間違いがないのです。

 もし、心に踊りあがるような喜びが湧き起こり、また少しでもはやくお浄土へ行きたいと思うようでしたら、私には煩悩がないのだろうかと、かえって疑念を抱くことでしょう」と、親鸞さまは仰せられたのです。


(6) 〈聖人一流章〉  親鸞さま
(親鸞聖人)のお勧めになった浄土真宗の趣旨は、無常の中、自らの行為によって深く重い罪を背負い、多くの煩悩をかかえて生きている私たちの何もかもをご存じのうえで、「あなたを必ず助けます」と誓われて仏となられた「阿弥陀さまのお心(阿弥陀如来の真実信心)」がすべてです。
 「あなたをどうしても救わなければならないのです」という、何の見返りも求められない慈悲ばかりの阿弥陀さまの願いを知らされたとき、私たちはそのお心
(衆生済度のお働き)をそのままいただいたのです(信心)
 私たちのいただくところの信心が、もともと「あなたを必ず助けます」という阿弥陀さまのお心であるということは、なんと尊いことでしょう。

 そのわけは、私たちが生死の問題を解決するために、自己中心のはからいを交えたもろもろの行為をたよりとしないで、「あなたを必ず助けます。私に帰しなさい」と、すべてのいのちに分け隔てなく呼びかけられる阿弥陀さまの声、「南無阿弥陀仏」にこのいのちを委ねますと、人知ではとてもはかり知れない本願のお力によって、このいのちが真実のさとりの世界である安らかで浄らかなお浄土に救い取られるからです。

 このように、救いの中に生きる喜び、お浄土
(真実世界)に生まれることが定まった境地について曇鸞さま(曇鸞大師)は、「私たちは、阿弥陀さまのすべてのいのちを救いたいという一途な願いに気づいて、そのお心をいただいたとき、安らかで浄らかなお浄土で必ず仏にしていただくことを喜ぶいのちの仲間に入るのです」と註釈をしてくださいました。
 すなわち、私たちがお浄土に往生することに間違いはなく、少しも疑いの余地がないことをお示しくださっ
たのです。


 そして、そのうえでの称名念仏は、自らの名である「南無阿弥陀仏
(名号)」に自身のいのちのすべて(全功徳)を込めて、私たちに称えられる「南無阿弥陀仏」という声の姿形となられて呼びかけられる阿弥陀さまのお名乗りであるとともに、お浄土に往くことが定められて限りなきいのちをいただいた私たちのご返事感謝の心、ご恩報尽の念仏)でもあると、そのように心得させていただきましょう。ナマンダブ、ナマンダブ・・・・・、ナンマンダブ、ナンマンダブ・・・・・。謹んで申し上げます。 (蓮如上人、御文章

   
南無阿弥陀仏
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《 心の言葉 》



◇ 『仏さまの言葉は、「まぁゆっくりしておいで、そのままでいいんだよ」と聞こえてくる。 するとその人は、元気が出てきて、「よーし」と、さらに歩みをはじめるのでしょうね』 (圓日成道師)

◇ 『与えられたいのちの不思議にめざめ 人間のおごりをすて すべてのいのちを大切にしよう。 えがたくかぎられた かけがえのない人生 ともに尊ぶ世界をひらこう』 (二葉憲香師)

◇ 『岩もあり 木の根もあれど さらさらと たださらさらと 水の流るる』 (甲斐和里子さん)

◇ 『死にむかって 進んでいるのではない 今をもらって生きているのだ 今ゼロであって当然の私が 今生きている ひき算から足し算の変換 誰が教えてくれたのでしょう 新しい生命 嬉しくて 踊っています ゛いのち 日々あらたなり゛ うーん わかります』 (鈴木章子さん)

◇ 『うれしいではないか。 私が私として生きていくことができるのは、いや死んでいくことができるのも、阿弥陀仏の支えあっての話である』 (駒澤 勝氏)

◇ 『如来さま
〈阿弥陀さま〉は、衆生をどうやって救うか五劫思惟なさって、その全部の功徳を衆生に回向して、仏名に成就して、その声になって救うと決められました。 これを名声といいます。 声になる名であります。 如来さまは、衆生に称えられる「南無阿弥陀仏」という名の声の相〈すがた〉の仏さまとして、私を救いにおいでくださっているのであります。 その仏さまが、私と一つになって、一緒にお浄土へ行ってくださるのであります。 口に称うれば、たったの「南無阿弥陀仏」という六声でありますけども、これには、もろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具しており、極速円満するおはたらきがあります。 真如一実の功徳宝海であります。 それが、私に満ち満ちておるんだよということであります』 (深川倫雄師)

◇ 恥かしや 親
〈阿弥陀さま〉に抱かれて 親さがし くたびれはてて 親のふところ』 (那須行英師)

◇ 『その自分の耳にも法を聴聞する手がかりがあります。 その眼にも仏を見る手がかりがあります。 その口にも仏を讃歎する可能性をもっております。 身・口・意の三業、すべて煩悩で固められた罪業深重の器がそのまま仏の道に役立つ可能性をもっております。 もちろんそれは仏のみ教えによって、仏の智慧に照らされて、自分の心が開かれるからであります』
  『称名念仏は初めからひとりでに出て来るものではありません。 自由に言えるように言い慣らさねばならぬのです。 念仏は称えるというよりも身につくものであります。 念仏が身につくと自然に出て来るようになるのです。 念仏は初めは稽古せねばならぬのです。(中略) ただ念仏を称えておることは容易なことのようでありますけれど、それが人間の口から出るということは容易なことではないのであります。(中略) そういう人が南無阿弥陀仏と称えるようになって称えるのです。 その他に求めるものは何もないのです。 信心が南無阿弥陀仏となって現れて来たのです。 南無阿弥陀仏と称えるようになった時に、既に心の中に阿弥陀仏のお徳がしみこんでいるのであります』 (暁烏敏師)

『お母さんは ゛無量寿゛の世界より生まれ、゛無量寿゛の世界へと帰ってゆくものであります。 何故なら゛無量寿゛の世界とは、すべての生きとし生けるもの達の゛いのちの故郷゛ そして、お母さんにとっても唯一の帰るべき故郷だからです。 お母さんはいつも思います。 与えられた゛平野恵子゛という生を尽し終えた時、お母さんは嬉々として ゛いのちの故郷
〈阿弥陀さまのお浄土〉゛へ帰ってゆくのだろうと』
  『゛無量寿゛=゛いのち゛とは、すなわち限りない願いの世界なのです。 そしてすべての生きものは、その深い ゛いのちのねがい゛に支えられてのみ生きてゆけるのです』 (平野恵子さん)

◇ 『私たちは それぞれの一生という水滴の旅を終えて、やがては海に還る。 母なる海に抱かれてすべての他の水滴と溶けあい、やがて 光と熱に包まれて蒸発し、空へのぼってゆく。そしてふたたび地上へ。 子供の絵のような幼い比喩だが、私には それがたしかに目に見えるような気がするのである』 (五木寛之氏)

◇ 『《私》中心の親鸞さまから、念仏に帰依し、念仏する親鸞さまへと転生してゆき、そこからさらなる転生を恵まれて、親鸞さまはまさに、念仏せしめられる親鸞さまとなられているのです。 この転生は、そのまま仏さまの願いの展開にほかなりません』 (高史明氏)

『どうにもこうにもならぬわたくし、沈みはてたるわたくし。造りし罪はヒマラヤ山よりも高く、煩悩の水は四大海水よりも多し。そのまま来れのお勅命、さてもさても南無阿弥陀仏の千両役者。これはこれはと仰ぐのみ、尊い尊い南無阿弥陀仏。今となっては心も千千に乱れがち、尊い尊い南無阿弥陀仏。説教聴聞ともにつき、尊い尊い南無阿弥陀仏。「きいたおぼえたこころまで 弥陀に取られて 丸はだか、本願力の大づなに 引かれ引かれて 来る極楽」』 (稲垣瑞劔師)

その仏〈阿弥陀さま〉に摂取されたら、もう逃げようたって逃げられない。私らを離れて普遍の仏がいらっしゃるわけではないからである。もう念仏するとかしないとかではなくて、つねに念仏のなかにいるという自覚が必然的に生まれてくる。そうすると、「念仏もうさんとおもいたつこころ」がおこるのも自然である。その自然のうちに、われわれが摂取されていることは、疑うことのできない事実である』
  『止むにやまれない大慈悲心、それが本願である。「生死の苦海ほとりなし ひさしくしづめるわれらをば 弥陀弘誓のふねのみぞ のせて必ずわたしける
〈親鸞聖人 和讃〉
』 (江部鴨村氏)

釈尊〈お釈迦さま〉なくして弥陀〈阿弥陀さま〉の願心に出会うことはできず、また釈尊によって発見せられし「無常」の真理なくしては釈尊の説法もなかったのであるから、弥陀なくしては釈尊もあり得ないのである』 (毎田周一氏

煩悩を野放しにしたままですと際限なくあらたな業を積んで、その結果を受けて際限なしに苦しむという悪循環を続けることになりますが、一度「南無阿弥陀仏」というお名号が私どもの生活の中に入ってきますと、愚痴を言うところを「南無阿弥陀仏」のことばがとってかわり、人の悪口を言うところを「南無阿弥陀仏」がとってかわります。 そうしますと、いつのまにか悪業を生みだす因が取りのぞかれていくことになります。うれしくても悲しくても「南無阿弥陀仏」と受けていく生活は、人の悪口を言うかわりに「南無阿弥陀仏」、人を呪うかわりに「南無阿弥陀仏」、そうなりますとつぎからつぎへと自分自身の業が転ぜられて功徳に変じてきます』 (坂東性純師

人さまのお手本《優等生》にはなれないけれども、こんな人間でも救われるよという見本にならなれます』 (高光大船師

ハカライ〈計らい〉やまぬ間は、ハカラッテよいのですよ。 ミダ〈阿弥陀さま〉にまかせられぬ間は、まかせられなくてよいのですよ。 時節が来たら、いつの間にか、ハカライもやめ、ミダにまかせる意識なしにまかせて、お念仏一つにならざるを得ぬことになる。 いつでも、今のまんまで、ナンマンダブ、これだけです。 そのお念仏も、称えられなくなったら、それはまたそれでいいんですよ。 ノドモト〈喉元〉でも、ムナモト〈胸元〉でも称えることが出来なくなっても、如来さま〈阿弥陀如来〉の「生死、まるオヒキウケ〈お引き受け〉」にはすこしもかわりないそうですよ。 それは、ただ念仏してミダにたすけられまいらすべしとの「よき人の仰せ」「如来のお勅命」がかかっているだけで、お助けだそうですよ。 凡夫の方のハカライやまぬも、ミダにまかせられないも、ナニ一つ関係ないのです。 如来のお助け、お引受けには、ただただ、ただ念仏せよの「仰せ」だけ、「勅命」のホカは、ナンニモイラヌラシイですよ。 ナンマンダブ ナンマンダブ ナンマンダブ ナンマンダブの仰せだけ、お勅命だけ 』 (木村無相さん

「お前に相談もせず、お前の助かる南無阿弥陀仏に成ったぞや。いやでもあろうがこの度だけは、この弥陀にめんじて助けさせてくれよ」と、阿弥陀さまがこんな私に、両手をついて、頭を下げて頼んでござるお姿お声が、今この口に現れ給う南無阿弥陀仏であります。そうすると、念仏するとかせねばならぬということを離れて、念仏するまま、させられているまま、唯、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と聞くばかりでございます』 (松並松五郎さん)

「弥陀の名号称するに、行住坐臥もえらばれず」とは、ご信心をいただいた上は道を歩むときは歩みながら、止まっておるときは止まりながら、さらに座っていても臥〈ね〉ていても、お念仏は休まずにということである。 「時処所縁もさはりなし」の時とは、昼夜朝暮、いつでも。処とは、山へ行っても市場に買いものに行っても、どこででもお称名はたえまなしに称えよとの仰せである。 所縁とは法を喜ぶ縁ということ、お説教にお参りして喜ぶも縁、友達の死を聞いて悲しむも縁、花や月をながめてお浄土の荘厳を思い浮かべて喜ぶのも皆これご縁である』 (七里恒順師

◇ 『阿弥陀さまが、私たちの声を借りて呼びかけようとされているのに、その邪魔をしては申し訳ないと思いませんか。  「南無阿弥陀仏」は、阿弥陀さまの一途なお呼び声です。  阿弥陀さまが、私たちに称えられる「南無阿弥陀仏」という声の姿形となられてまでして、私たちのもとへ救いに来てくださっているのですよ。 昔、「皆さんの唇の動かないのが口惜しゅうございます」と越後の貞信尼さまは言われたそうです。 ひと声「南無阿弥陀仏」と申すと、「南無阿弥陀仏」と聞こえるではありませんか。 呼ばれたりお呼びしたりの阿弥陀さまと私です』
  『阿弥陀さまは「南無阿弥陀仏」という声となり、手話となり、点字となり・・・・・、いろんな声の姿となって呼びかけてくださいます。 うれしいとき、さみしいとき、悲しいとき・・・・・、私は阿弥陀さまとそっとお話をするのですよ。 ナンマンダブ、ナンマンダブ、ナンマンダブ・・・・・と。』 (藤原瑞枝さん)

『やり直しのきかぬ人生であるが、見直すことができる』
  『「ただ念仏して」とは、なんの道理をもつけずに称念する
〈「南無阿弥陀仏」を称える〉ことである。 悲しみにつけ、喜びにつけ、心理の動くままに称念するのである。 人生に悩み彼岸〈生死を超越したさとりの世界〉を願う、そのままの心が念仏するのである』 (金子大栄師)

『法然上人
〈法然房源空、浄土宗の開祖〉は、「わが身に聞こゆるほどに」と申されていて、お念仏は声を出してそれが自分の耳に分かればよいと、花田〈花田正夫さん〉はいつも申しておりました。 花田がいつも喜んでおります源通寺さまのお歌、「宿業でたとえぼけても狂うても たがえたまわぬ弥陀の約束」、有難いですね。私もこれしかありません』 (花田あやさん)

さて、当日の境内は色とりどりのツツジが見ごろを迎えておりました。 法座が終わり外に出ますと、先程までお念仏が響き渡っていたはずの境内も静寂を取戻していました。 そんな中、色とりどりのツツジのあま~い蜜を、次から次へと忙しそうに集めているクマバチ〈熊蜂〉のブ~ンという力強い羽音が、余韻残るお念仏の「ナマンダブ~」のブ~の余韻と相まって、味わい深く聞こえてまいりました。 見えるもの見えないもの、何もかもが阿弥陀さまに照らされ呼びかけられています。「ナマンダブ ナマンダブ ナマンダブ・・・・・」に包まれた、「南無阿弥陀仏」の中のいのちです』 (大西敏夫氏)

『如来
〈阿弥陀さま〉に信ぜられ、如来に敬せられ、如来に愛せらる。 かくて我等は、如来を信ずることを得る』
  『阿弥陀如来は衆生の仏性を見つけて信じた。 阿弥陀如来は衆生の本心を見抜き、衆生を信じて本願を起した。 信は仏にある。 ただ一方的に仏を信ぜよというのでない。 我々が仏を信じていようがいまいが、先ず仏は我等を無条件に信じ念じておられる。 その証拠が南無阿弥陀仏である』
  『如来、如より来たる。 如は、まこと
〈真実〉です。 法のまことです。 如は形をとります。 光という姿をとり、私どもを照らしてくださります。 そしてさらに光が本願をおこして、名号〈南無阿弥陀仏〉を成就して、私どもを呼んでくださります。 言葉となって、光の姿としてあらわれ、そうして名号を示して、私どもを呼んでくださります。 私どもには業というものがあり、如来には大悲の本願があります。 結句、私どもを助けてくださることのほかに何もないのです。 これみな法のはたらきです。 それが、阿弥陀如来〈阿弥陀さま〉であります』 (曽我量深師)

『親鸞聖人は、自分の喜ばれている姿をひたすら紙
著作に残して下さっています。 私はそれらをきちんと読んだ訳ではありませんが、聞かせてもらえば決して誰かに教えを説くために書かれた物ではなく、ただただ大きな阿弥陀さまのお心の中にあることに気がつき、そのことを喜んでいる姿を紙に残されているようにしか思えないのです。 ですから私は、親鸞聖人も蓮如上人も同じ仲間であり、友人、同朋としか思えないのです。 共に、全く同じ阿弥陀さまに抱かれた一つ一つのいのち、それ以外の何ものでもありません。 親鸞聖人や蓮如上人がよろこんでおられなければ、今、この時、私が阿弥陀さまのお心に出遇うことはなかったことでしょう』
  『自分にとって、自分の口から出たお念仏〈南無阿弥陀仏〉を、自分の耳で聞かせていただくということが、どれだけ幸せなことなのか・・・・・。(中略) みなさんの口から出てこられた阿弥陀さまの声〈南無阿弥陀仏〉を、私も聞かせていただけることが、自分にとってどれだけ嬉しいことなのか・・・・・』 (橋爪昭人氏)

『世間は虚仮なり、唯仏のみ是れ真なり』 (聖徳太子)

◇ 『凡夫というは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとえにあらわれたり』 (親鸞聖人)


『煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします』 (親鸞聖人)

誠に知んぬ。悲しきかな、愚禿鸞〈親鸞〉、愛欲の広海に沈没し、名利〈名誉や利益〉の太山に迷惑して、定聚の数〈浄土に生まれて仏になる仲間の数〉に入ることを喜ばず、真証の証〈仏のさとり〉に近づくことを快しまざる〈うれしいとも思わない〉ことを、恥づべし傷むべし』 (親鸞聖人)

『いだかれて ありとも知らず おろかにも われ反抗す 大いなるみ手に』 (九条武子夫人)

『智者のふるまいをせずして、ただ一向に念仏すべし』 (法然上人)

『煩悩にまなこさへられて 摂取の光明みざれども 大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり』 (親鸞聖人)

『十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなわし 摂取してすてざれば 阿弥陀と名づけたてまつる』 (親鸞聖人)


詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなり』 (親鸞聖人)

 《 親鸞聖人の言葉 》
    「久遠実成阿弥陀仏 五濁の凡愚をあわれみて
       釈迦牟尼仏としめしてぞ 迦耶城には応現する」(浄土和讃)

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この
「お釈迦さま物語(釈迦如来の教えと阿弥陀如来の救い)」は、2012年(平成24年)4月より掲載しています。最後までお読みいただきありがとうございました。このご縁に感謝いたします。


   

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