築地本願寺常例布教    



10月1日(金)に築地本願寺常例布教に行ってきました。




築地本願寺紹介

関東の人々に「築地本願寺さん」と親しまれているこのお寺は、正式には「浄土真宗本願寺派本願寺築地別院」と言います。その発祥は、元和三(一六一七)年、西本願寺の別院として、第十二代宗主(ご門主)准如上人によって建立されました。

 当時、浅草近くの横山町にあったことから「江戸浅草御坊」と呼ばれていましたが、明暦三(一六五七)年、歴史的に有名な振袖火事で焼失してしまいました。しかし大火後の幕府の区画整理のため、旧地への再建が許されず、その替え地として下付されたのが八丁堀の海上でした。

 そこで佃島の門徒が中心になり、本堂再建のために海を埋め立てて土地を築き、延宝七(一六七九)年に再建。「築地御坊」と呼ばれるようになりました。尚、このときの本堂は、正面 が西南(現在の築地市場)を向いて建てられ、市場のあたりが門前町となっていました。

 その後、関東大震災で崩壊した本堂の再建では、東京(帝国)大学工学部教授・伊東忠太博士の設計による古代インド様式で昭和六(一九三一)年に起工、三年後の昭和九(一九三四)年に落成され現在に至っています。

 この建物は、インド様式の石造りとなっていますが、本堂内は伝統的な真宗寺院の造りになっています。写真とともに改めて紹介しましょう。

御本尊「阿弥陀如来」

このご本尊は、聖徳太子の御作と伝えられているもので、大阪堺の信証院所蔵のものを遷座したものです。無量の智慧と慈悲をもって、一切の衆生を救おうという願いを発し、十方に智慧の光を放ちつつ、立ちつづけて南無阿弥陀仏(阿弥陀仏を依り処とせよ)と喚び招いておられます。
宗祖「親鸞聖人」

我欲に染まり、自らの力で苦悩を脱却することは出来ない、蟻地獄のような悪循環の人生の只中にあって「必ず救うぞ」とお浄土から呼びかけてくださる阿弥陀仏のお呼び声に出遇い、そのおたすけ(他力)に従って(信心)生きるより他に、道はない、と九十年の生涯を通してお示しくださいました。そのお導きは主著『教行信証』に示されています。
聖徳太子像

 このお木像は、江戸平松町佃屋又右衛門というものが奥州湯殿山へ参詣の途次、下野宇都宮の宿に泊まったとき、同宿した廻国の行脚僧から丹後宮津の祠で得たという、裏面 に聖徳太子十六歳自作と彫りつけてあるお面を渡され、それに尊体を作って安置してくれと頼まれました。朝、目がさめると廻国僧の姿はなく、そこで彼はそのお面 を江戸に持ち帰り、尊体を作って、築地御坊に安置したというものです。
本願寺前宗主「勝如上人」

築地本願寺の本山、京都・西本願寺第二十三代ご門主で、国内・海外へのご巡教に積極的に取り組まれ、「名ばかりの門徒・僧侶」にならぬよう、ご教導されました。築地本願寺の前ご住職でもあります。
七高僧

仏教が私たちにとどくには、はかり知れない時間と道のりをとおして多くの高僧や先達の方々の努力が積み重ねられています。そういう方々の中から、親鸞聖人は七人の高僧を選んで教えの師と仰がれました。
正信偈や高僧和讃にうたわれている、インドの龍樹菩薩、天親菩薩、中国の曇鸞大師、道綽禅師、善導大師、日本の源信和尚、源空上人(法然上人)の七人で、いずれも大乗仏教、浄土門の教えを正しく伝え、多くの著書を残されています。


そのほか、本堂の後方には非常に珍しいパイプオルガンが設置されています。昭和四十五(一九七〇)年十一月、(財)仏教伝道協会(故沼田恵範理事)の寄進により、この本堂に設置されたパイプオルガンは、旧西ドイツのワルカー社により一年間をかけて制作されました。パイプの大きいものは三メートル、小さいものは一センチにも満たないものもあり、合計約二千本の管(笛)で構成されています。その左手には2段の手鍵盤と三十本の足踏鍵盤の演奏台があり、これらを使って演奏者が送る「風」に、繊細で荘厳な音色を織りなします。

(築地本願寺ホームページより)
 





浄土真宗本願寺派  純心寺 (西本願寺)

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